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養殖真珠の歴史を振り返る!人々が求めた叡智への旅【3】

2022.05.30 2023.08.04

養殖真珠の歴史を振り返る!人々が求めた叡智への旅【3】

養殖真珠のターニングポイントになったのが、真円真珠の養殖の試みが盛んになった19世紀。そして、その試行錯誤が実を結んだのは1900年代初めの日本でした。今回の記事では真珠の養殖を牽引することになる日本人3名の活躍、背景にある歴史舞台についてを解説していきたいと思います。

 

養殖真珠の歴史を振り返る!連載コラム

【1】世界最古の養殖真珠について

【2】養殖真珠の裏側、模造パール開発の歴史

【3】日本人が開発した真円真珠養殖(現在の記事)

日本人が開発した真円真珠養殖プロセスと宝飾史に残る裁判事件

一般的に真円真珠の養殖技術は1907年に開発されたと言われています。第1回のコラムでご紹介した仏像真珠から、数百年の歴史を経て誕生した真円の養殖真珠。学者でさえも真円の真珠を養殖することは不可能と匙を投げたこともありましたが、3名の日本人がその養殖に成功。

 

天然真珠の価値を揺るがし、今までの通説を覆した真円真珠の養殖。ここでは養殖の舞台を日本に戻し、真円真珠養殖技術を開発したパイオニア達の活躍に焦点を当てていきたいと思います。

 

真円真珠養殖を可能にした日本人3名の功績

仏像真珠に模造真珠、真珠の美しさに惹かれた人々が追い求めたのは完全な球体による真珠の養殖でした。真珠養殖理論についてはドイツやフランスなどの欧州諸国が盛んに研究を進めましたが、肝心の養殖は日本が牽引することになるのです。

 

真円真珠養殖に成功した3名の日本人

養殖真珠の歴史の中で、半円形の真珠の養殖は過去に成功していますが、需要と審美性が高い真円真珠の養殖は困難を極めました。19世紀のヨーロッパでは真円真珠の研究が活発になり、「真珠袋(※1)」が真珠養殖のカギになることが判明。

(※1)外套膜の上皮細胞が細胞分裂を起こして形成され、 真珠袋は真珠層を分泌する。

 

この理論を元に真円真珠の養殖に成功したのが日本人でした。皆さんもご存知だとは思いますが、MIKIMOTOの創始者である「御木本幸吉」、そして真珠袋形成の理論を元に真珠養殖技術を発明した「西川藤吉(にしかわ とうきち)」と「見瀬辰平(みせ たつへい)」です。

 

1907年に真円真珠開発の理論が導き出されましたが、勿論その成功の裏には多くの試行錯誤がありました。ここではまず、日本が養殖に成功した真円真珠の軌跡を分かりやすく年表にしてみましょう。

 

  • 1893年:御木本幸吉が半円真珠の養殖に成功
  • 1905年:御木本幸吉が真円真珠の養殖に成功
  • 1907年:見瀬辰平が貝の外套膜を切り出した細胞組織を貝の体内に移植し、真珠袋を作る技術を開発、特許取得。西川藤吉も真円真珠の養殖技術に関する特許を申請し、両者の間で争いが生じる。
  • 1917年:西川藤吉による真珠養殖プロセス「ピース式」が特許取得
  • 1919年:御木本幸吉による真珠養殖プロセス「全巻式」が特許取得、同年ロンドンで養殖真円真珠の販売を開始
  • 1920年:見瀬辰平による真珠養殖プロセス「誘導式」が特許取得

仏像真珠に代表されるブリスターパール(※2)が養殖されることはあれど、完全な真円真珠が養殖されることはなく、1900年代初頭は真円真珠開発のアニバーサリーとも言えるのではないでしょうか。

(※2)母貝の貝殻部に張り付いてドーム状に形成された真珠。

 

MIKIMOTOのブランドネームが強く印象にあるため、「養殖真円真珠=御木本幸吉の功績」とされがちですが、同時期に異なるプロセスで養殖に成功した西川藤吉、見瀬辰平も真円真珠開発のパイオニアであることはいうまでもありません。

 

真珠養殖を成功させた3つのアプローチ

真珠養殖を成功させた3つのアプローチ

真珠大国として知られるようになった日本ですが、前述のように西川藤吉、見瀬辰平そして御木本幸吉はそれぞれ異なる方法で真珠養殖に成功しています。作業効率に優れた「ピース式」が現在の養殖真珠の基本技術として引き継がれていますが、ここではそれぞれの養殖プロセスを分かりやすく解説していきたいと思います。

 

① ピース式(西川藤吉)

外套膜の一部を貝の内部に移植する方法。外套膜(ピース)が細胞分裂を起こし真珠袋を形成する。

 

② 誘導式(見瀬辰平)

外套膜を含む上皮細胞を核になる物質に付着させ、貝の内部に特殊な注射器で送り込む方法。

 

③ 全巻式(御木本幸吉)

核として利用する貝殻全体を外套膜で包んで貝の内部に移植する方法。

それぞれが外套膜を貝の内部に挿入していることは共通しています。これは1858年にドイツのヘスリングが発表した「真珠の形成には真珠袋が必要不可欠になる」という理論に沿ったものです。つまり真珠層形成機能がある外套膜上皮細胞を挿入したからこそ、真珠を人為的に養殖できるようになった訳ですね。

 

御木本幸吉に限っては、まず様々な形状の核を貝の内部に挿入するという中国の仏像真珠に倣った方法から試行錯誤を繰り返し、最終的には全巻式の養殖方法を開発しています。一方で西川藤吉、見瀬辰平は当初からヘスリングの理論による研究、養殖成功への挑戦をしており、真円真珠の発明アプローチの着眼点に関しては御木本幸吉よりも先見の明があったのかもしれませんね。

疑われた養殖真円真珠の価値とパリ裁判

疑われた養殖真円真珠の価値と御木本パリ裁判(1924年)

真円真珠養殖の根本となる技術が開発されたのは1907年頃。日本で養殖された天然とほぼ変わらない養殖真珠は海を渡り欧米へ輸出されるようになりました。

 

しかし、そこでは思いもよらない疑いの目が向けられることになるとは誰も想像することができませんでした。

 

養殖真円真珠を巻き込んだ大事件

1919年、御木本幸吉が養殖に成功した真円真珠がロンドンデビューを果たします。日本の養殖真珠が天然とほぼ変わらぬ品質であること、そして天然よりも低価格で販売が可能と言うことで、養殖真円真珠はロンドンのみならず欧州の宝飾市場に大きな影響を与えました。

 

しかし、天然と変わらぬ精巧さがあったとしても、東洋の小国日本から登場した「養殖真円真珠」には疑いの目が向けられることになります。ロンドンの新聞各紙では「御木本の養殖真珠は天然と呼んでいいものなのか?」などの酷評の的になるのです。

 

そして、その懐疑の目と反抗運動はパリにまで飛び火し、御木本の養殖真円真珠の輸入禁止を求める裁判にまで発展していきます。これが宝飾史でも大きな関心を呼ぶことになる「パリ裁判」です。

 

ロンドンやパリでも御木本の養殖真円真珠の価値を一定以上認めている識者やメディアも勿論存在していましたが、いわゆる格好の炎上案件として宝飾業界だけでなく世間を騒がせるようになりました。「養殖真珠が天然真珠の価値を揺るがすことはない!」と声を高らかに主張する者もいれば、一方で、模造真珠を御木本の真円真珠と謳って販売する強者もいたくらいです。

 

国を跨いでこれだけの騒動に発展した理由としては、以下の点が挙げられます。

 

  • 半円養殖真珠が天然とも模造とも異なる位置づけで販売されていた
  • 養殖真円真珠のテリや色合いが天然とほぼ変わらない
  • 養殖真円真珠の値段が天然真珠よりも2割以上安く販売されていた
  • 今までに真円真珠が養殖された前例がなかった
  • ドイツのヘスリングも人為的な真円真珠の養殖に懐疑的であった

それらに加え、天然真珠の価値が日本の養殖真円真珠によって脅かされることを恐れていた、そんな背景もあるのです。ロンドンでの論争がパリに飛び火するのに24時間しかかからなかったことから、いかに御木本の養殖真円真珠に対する注目が高かったかがわかりますね。

 

パリ裁判の行く末

パリ裁判は御木本の養殖真円真珠が模造品として扱われ、なおかつ輸入禁止にまで追い込まれたため起こされた裁判です。ただし、この裁判は日本の御木本が訴訟したものではありません。パリMIKIMOTOが輸入しようとした養殖真円真珠の持ち込みが許可されなかったこと、模造判定をされたことに対して、当時のパリMIKIMOTOの支配人ポールが賠償を求めるために行われました。

 

天然と変わらぬ色合いとテリ、そして真珠層があること。唯一の違いは、中心に存在する核が「天然で偶発的に混入した」のか「人為的に挿入されたか」だけであることは科学的にも論証されていました。

 

しかし、その裁判で勝ち取ったのは「天然と変わらぬ真珠である」という証明とはならず、「養殖真円真珠を天然とは異なる模造品と判断するには十分な証拠はない」という見解止まりでした。とは言え、結局のところ裁判の主訴であった模造の疑いは晴れたというわけです。

 

それでも養殖真円真珠は模造ではないが天然真珠には劣るという意味で、「養殖真円真珠は中間物として許容されるべき」など論争があり、裁判も蒸し返すように起こったそうです。しかし、裁判毎に養殖真円真珠の養殖工程が明らかになるにつれ、真円真珠は養殖できないという通説が徐々に崩れていくことになりました。

 

なお、国によっても養殖真円真珠に対する反応は異なるようで、欧州においてネガティブに捉えられた国はイギリスとフランスの2カ国であり、その他の国では好意的に迎えられたケースがほとんどでした。

まとめ

養殖真珠の歴史に関してまとめると、

  • 見瀬辰平、西本藤吉、御木本幸吉が異なる方法で真円真珠を養殖
  • 御木本幸吉が初めて真珠真円養殖に成功
  • 1907年に真円真珠の養殖プロセスが確立する
  • 現代の養殖技術の基盤になっているのは西川藤吉による「ピース式」
  • 養殖真円真珠に懐疑の目が向けられパリ裁判が行われた

日本が今も養殖真珠業界を牽引しているのは事実です。しかし、パリ裁判が起こった当時、養殖真円真珠は採苗から浜揚げまで5年弱もの歳月をかけ、真珠層の厚さを1.5ミリ程度にまで形成させていました。しかし現在では、養殖期間が最も短いもので半年程度であり、真珠層の厚さも0.2ミリ程度しか無い養殖真珠も存在します。

 

当時の感覚からすれば、現在の養殖真珠は本物の天然真珠とは認定されなかったかもしれない、そう考えると何だか悶々としてしまいますよね。

 

とはいえ、人類の夢の1つであった真円真珠の養殖を可能にした3名の日本人、見瀬辰平、西本藤吉そして御木本幸吉の功績は大きなものです。真珠は人魚が流した涙であるという伝説も伝わりますが、実際は日本人3名による想像を絶する努力の結晶でした。

 

3回にわたって連載した「養殖真珠の歴史を振り返る!」シリーズはこれで最後となります。天然真珠と養殖真珠の垣根が徐々に無くなり、当たり前のようにパールジュエリーに養殖真円真珠が利用される昨今ですが、このように養殖真珠の歴史を紐解いていくと、手元のパールネックレスやリングを見る目も変わりますよね。

 

最初のコラム:養殖真珠の歴史を振り返る!御木本以前の養殖真珠の歴史【1】

 

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